以前、「統合失調症という事実」を読んだに書いた通りなんですが、コンサータによって自己の連続性を失いつつあるで紹介されていて興味がわいたので購入しました。


〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義


人間の自動知覚の仕組みが複雑な進化の過程を経て出来上がったという話から始まります。これについて、「蛇を恐れても花は恐れない」とか赤ちゃんの物体に対する反応などが例として取り上げられます。要するに人には後から獲得した知識ではなく生まれ持ってしたテンプレートが存在するという旨の内容です。本の中ではこれらは配線と呼ばれています。そして、特定の仕事だけを行うニューロンが存在するという説明がさまざまな実験を例に紹介されるのですが、ここがなかなか厳しくて、まずこの本には一切図のようなものが存在しません。脳梁という言葉は知っていてもどこの何を指すのかわからない人が大半だと思いますし、左半球・右半球もわからない人が大半だと思います。(たぶん左脳と右脳とイコールだと思う)

ここに加えて数々の精神医学や物理学の歴史が順に紹介されていき、よくわからない外人さんの名前が多々出てくるので厳しさが増していきます。「前述の○○も××については認めている」というような内容が出てきても、まず「○○って誰だったっけ…??」(←いちおう数ページ前には登場している)という状態で、特に前半はそういった内容が多いです。ただ、読むことには支障はないのですし、数多くの先人の積み重ねで学問が成り立っているという雰囲気を感じることができます。

この辺りまでは、実験(人体実験的なものではない)の解説を通じて下記のようなものが説明されていきます。

  • 脳の損傷であっさりと性格が変わってしまうということ
  • 脳梁を切断しても影響がない(ように見えるほとんどの場合)
  • 視覚野の損傷で処理を担当する部分がいなくなるので意識すらできなくなる
  • 左半球が適当にストーリー(理由)をでっちあげる
  • 行動に対する説明も全て後付けである
  • 自動化は訓練で取得できる

途中で読みながら背筋がぞわぞわとする感覚があり、読むのが少し恐いと感じるとともに、どういう気持ちでこういった実験を行うのだろうかと思ったりもしました。この辺りの説明が一通り終わると、いよいよ本の英題である「Who’s in charge?」つまり責任は誰にあるのか?の見解が少しづつ始まります。

脳が意識する前に行動は終わっている。ということをベースにして予測可能・予測不可能とはなにか、因果律や決定論に対する見解が説明されていきます。この辺りを読んでいて感じるのは物理学が多くの基礎であるということです。この本では神経学以外にも他の学問の説明(もちろん素人が読むことができるレベル)が出てきますが、一番多いのは物理学です。物理学での予測について、限界が来ているということが長々と説明されます。これは脳も行きつけば物質であるということからです。後に「では、人間の脳では…」という形での説明に続いていきます。

相変わらず、実験の解説は引き続き挟まったりするものの、前半ほど堅苦しくなく、それに合わせてか文章も柔らかくなってきているような印象を受けます。例えば…

著者は自著のタイトルに関して全面的な決定権を有しているわけではなく、最終選択は版元から(不可解な形で?)創発する。

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義 マイケル・S・ガザニカ 藤井留美(訳) p.156

とあるように、茶目っ気のあるような内容も見受けられるようになります。余談ですが、Kindleでザッピングしていて厳しいと思うのが全く興味のない(具体的にはビジネス書)の類のものが表示されるのが本当になんとかならんのかと思います。私がビジネス書が好きくないのは本の題名が煽りやバズを目指したようなブログと重なるからです。そういった題名の本が群を抜いて多い。なので、できれば表示すらされて欲しくないのですが、この「著者は自著のタイトルに対して…」というのを見ると、まあ、著者もそういうタイトルを付けたくて付けているわけではないのかもしれない…と思ったりもしました。(でも、こういうタイトル付ける著者だいたい共通してるんだよな)

話を戻すと、次に脳と社会性の話に入ります。ここでは人間には配線つまり生まれつき道徳心や公正さが備わっており、それは集団生活を経てそういうふうに進化した。ということが述べられているわけですが、ここで次のような記述があります。

他者への攻撃や横暴な態度が行き過ぎたものは集団から追放されるか、殺されるかした。こうしてヒトは、いわば自分で自分を飼いならす過程を経ていった。

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義 マイケル・S・ガザニカ 藤井留美(訳) p.198

人間をお休みしてヤギになってみた結果でもほぼ同じことが言及されて少し驚きましたが、ここまでで描かれてきた内容の積み重ねによって「人間をお休みしてヤギになってみた結果」の時と比べて格段に説得力があります。この本は物によっては「そんなの当たり前なのでは?」と思うことも書いてあったりするのですが、素人がそれを説明しろといわれればやはりできず、そういったものごとに対して根拠を示して書くことができるというのが専門家が専門家たる所以なんだなぁ。などと思ったりしました。

続けてキツネの家畜化の話がでてきます。キツネを家畜化すると犬のようになる。という話は私も知っていたのですが、なんと選別方法が手を差し伸べて一番早く近寄ってきた子ぎつねで選別するという、単純な方法で驚くとともに、数世代ですぐに影響が出てくるそうです。

これらを踏まえると人の性格は生まれつきで変えることができないのか。生まれつきに道徳性や公正さがあるのに紛争が起こるのは、配線に対する理由付けが異なるのでは。ということで章が締められます。この章は雑に書くと、性善に加えて環境要因で更に制限がかかる。ということなのだと思うのですが、でもひねくれてる私のような人間からすると、環境要因(法律など)で制限がかかるレベルのものは性善説とは言えないのでは?と思った。道徳心があらかじめ備わっているのであれば、環境要因で制限がかからなくてもそこそこの秩序は保たれると思うんですよ。でも現実は法があってもアナーキーじゃん。

最終章では裁判の判例を取り上げながら、わたしとは何なのかということと責任の所在についての見解が述べられます。ここは割と現代の話が多くでてきます。実際にMRIの画像が法廷に持ち込まれ判決が覆った例がでてきているそうです。内容は長いので割愛しますが、これに関してはガザニカ氏はいかがなものかという見解を示しているようです。後はいくつか印象的なフレーズを取り上げておくと

極刑を正当化しうる事由は抑止と報復であるが、精神遅滞の被告人にそれを理解できない以上、極刑は残酷で異常な刑罰にあたる

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義 マイケル・S・ガザニカ 藤井留美(訳) p.242

これはガザニカ氏の言葉ではないですが、ああ、なるほど、これが精神状態によって判決が変わる場合がある。というのが、わかりやすく端的に説明されている文だと思った。もっともこの後の実験で報復的に懲罰を与えようとする人が多いというのは言及されてる。

アメリカ人の被験者にいろいろな社会集団を見せると <中略> 嫌悪を感じている時の内側前頭皮質は、石のような物体を見ている時と全く変わらなかった

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義 マイケル・S・ガザニカ 藤井留美(訳) p.255

これはワロタ。

協力的な集団を維持するには、ただ乗りに罰を与えなくてはならない

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義 マイケル・S・ガザニカ 藤井留美(訳) p.268

つまり集団が厳しい…

などで、まとめると集団生活は厳しいという感想を抱いてしまいました。2人そろえば争いが発生してしまうと常々思ってしまうわけですが、要するに人類が時間をかけて進化しない限り争いは解消しないというのが、本を読んだ感想で、つまり人間社会が厳しい。

少なくとも著者のガザニカ氏の<わたし>の見解は最後の方にはいちおう触れられているのですが、そういうネタバレのような内容を本の利益的な意味で書いてよいのかどうかわからんのでここでは伏せておきます。

また、全編を通して書いてあるのは、脳というのはインターネットと同じ様に、分散されたネットワークでそしてそれらが互いに影響を受けて自我ができる…というような内容で、これ自体はよくあるSFのような感じだなぁ。などと思いました。おわり。